若草物語・・・・・・空と木の話へ戻ります

     

娘あっこのこと

様々な検査の末、診断が確定したショックは次々と途方にくれる感情をもたらします。
何故よりにもよって我が子なんだろう!

病気がわかったとたん、わたしはは激しい喪失感にとらわれました。
怒りを感じ、しかもそれがとても激しいものであったのです。
神様に置き去りにされたような気持ちや、過酷な運命と、子どもをすぐに治せない
医師や医療従事者などへの怒りを感じてしいました。
ときおり、病気になった自分の子どもに対してさえ、こんな病気になってと怒りを感じることもあったのです。
でも、そんな怒りをおもてに出すことはできません。
病気の子どもに対して怒るなんてできませんよね。
ですから、そういう感情はあっこ以外の家族へと向けられて爆発するのです。
夫や健康なものたちがやり場のない感情の犠牲になったりしたのです。
夏の暑い盛りでした。クーラーが効いているせいか、それともショックで茫然自失だったのか。
身体が寒さで震えていました。医師の言葉がどこかの知らない誰かのことを言ってるのだという、
離人感に囚われました。

ただ、壁に掛けられていた、一枚の絵、白い馬の絵でした。
森の中で、のんびり草をはむ、白い馬。
そんな光景だけを記憶しているのです。
映画のワンシーンのように、繰り返しこのシーンだけが、思いでのまほろばで、浮かびます。 元々、私の家系には血液の疾患を持つものが大勢いました。
でも・・・あっこは私だけの 遺伝子を持って産まれてきたわけではない。
寧ろ、主人の方の遺伝子を強く持って産まれてきたに違いない。

だから・・・そんなことが我が子、我が身におきるはずがない。
そんな風に言い聞かせてみたり・・・
怒り・恐怖・自責の思いそして・・・辛い入院生活重病の子供

星になっていった、大勢の子供達よ。星になった大勢の子どもたち、
あっこは幸いに命の蝋燭の火を消すことなく
今日も、命を生きながらえています。これは、運が悪いとか、良いとかの問題ではなく
みんなも、きょうと云う日を、等しく迎えることができたはず。
ただ、ほんの少し、本当に少しだけ、運命の神さまが向こうへ向いていたときに

あっこは、自分の命の蝋燭を取り戻しただけ。
あっこは、みんなのことを忘れてはいません。決して忘れることはないでしょう。いまも
あの子の中には、みんなが住んでいます。だから、どうか生きようとしている
そんなあっこをみんなで、見守ってあげてほしいのです。

奈々ちゃん、あっこは今も、貴方の写真を持っています。学校へ持っていくのです。
それは、一緒に勉強をしたかったという。
奈々ちゃんの最期の願いを、あっこが覚えているからです。
重病の子どもをどうするのかでは、命を脅かすような病気に罹った子どもにどうやって話していけばいいのでしょう。
5歳以下の子どもを調べてみると、
 
重篤な子どもにとっては別離の恐怖、放棄されることへの恐怖、
孤独への恐怖が非常に重大なことだとわかります。
 
6~10歳の子どもでは、またおそらく5歳の子どもも、
肉体的に危害が加わることについて恐怖心を抱いています。
最近その年齢層の白血病患児を調査してみた結果、
両親や医療関係者が子どもには病気の予後を知らせまいとしても、
子どもは自分の病気の重さや、ちょっとやそっとの病気でないことをどういうわけか
感じ取ってしまうことがわかりました。見捨てられるのではという恐怖に取って代わって、
体に害が加わることやおそらく自分自身の死を認識した恐怖心が出てきます。  

10歳以上の子どもはまさに死への恐怖を表わします。
前思春期・思春期では、この恐怖心は他の恐怖より勝ります。
彼らは自分の病気の重さをわかるようになります。
もし大人からちゃんと意味をなす対話がもたれていないと、
この恐怖心は子どもの不安をさらに助長させることがあります。
この年頃の子どもは隠そうと申し合わせたりされると特に不安になるりますし
、思いやりのある大人から自分のことについて話し合う機会が与えられれば 
とても安心するのです。

10歳以下の子どもは直接的な質問はしません。
大人が彼らの心配事を察して話してくれる用意が整うのを待ちます。
死の不安を表わさないことは関心がないのではないのです。
5歳の子どもたちのあるものは死について気軽に話すこともある一方で、
たいていは自分の思いを率直に表わすことは困難であり、
こういう時は死についての不安がないのだとと思われがちです。

彼らの思いは隠れており特殊な子どもはまったく恐怖心を示さないという報告は、
現実にはその表現ができない子どもを示しているだけなのかもしれません。

そのほかによく起こることは、小さな子ども自身が両親を悲しませまいとして、
本当はどれくらい自分の病気について知っているかを知らせないことです。
自分の診断結果について知っていながら、
両親が自分には知ってほしくないと思っていることに気づいている子どもが
おそらく一番孤独でしょう。

その結果、深く意味のある対話はほとんどもたれませんし、
子どもが自分の寂しさや恐怖や不安を率直に表わせる相手が誰もいなくなります。  
問題は診断について話すかどうかということではありません。 子どもはそれをどのみち感じ取るのが普通ですから、それは伝えられるべきです。
問題なのは、その子の心配事が共感され理解されることや進んでその心配事について 話し合う気持ちがあることを、どうやって子どもに知らせるかです。さらに、子どもが感じている自分の病気がもたらしうるものへの不安は 両親が心に抱くものとは必ずしも同じものではないことを忘れてはなりません。
子どもは耐え切れないほどの苦痛から自分を守るために防御壁を築きますが、 それでも本当のことを話してほしいのです。 子どもの防御をわかった上で、それと同時に子どもが聞いてくる死や病気についての問いに対し 誠実で率直でいることはなかなか骨の折れる務めです。
この困難に知性と理解と共感を持って立ち向うことは、子どもの大変な苦悩を減らし生きようとする意志を強めます。
以上をまとめると、5歳以下の重篤な患児が持つ不安は放棄、別離、孤独への恐怖の形をとります。

6歳から10歳の子どもは自分のただことではない病気を感じ取ります。子どもは肉体的な害を恐れます。前思春期、思春期の子どもは通常病気が致命的になりうることを鋭く感じとるので、襲いかかってきうる死をとても不安に思います。子どもの予後について何も知らせまいとしてもいずれわかるようになります。彼らの不安について話し合う機会を与えるべきです。



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